「発達障害は個性」という言葉に感じていた違和感

違い?個性?違和感を覚える 子育てと日常

「発達障害は個性。」

私はこの言葉を聞くたびに、少しだけ違和感を覚えていました。
もちろん、この言葉には優しさがあります。

その人らしさを認めようとすること。
発達障害を否定的なものとして見ないこと。

そういった願いが込められている言葉なのだと思います。

でも、その一方で、私はこうも感じていました。
この言葉は、ときどき、発達障害による困りごとをあまり持たない側から見た言葉になってしまう。
そういうことがあるのではないか、と。

「個性だから大丈夫」では困りごとは消えない

宿題ができない女の子のイラスト

例えば、

  • 音や光に強い苦痛を感じる。
  • 人との会話で、相手の意図がうまく読み取れない。
  • 不安が強く、予想外の出来事でパニックになる。
  • パニックになると、意思疎通がうまくできなくなる。
  • 頭では分かっていても、行動の切り替えが難しい。

こうしたものは、その人の個性の一部と言えるのかもしれません。

でも、その特性によって本人が日常生活で困っているなら、それを単なる「みんなそれぞれが持つ個性」で済ませることはできません。

発達障害は「変わった性格」だから診断されるものではありません。

特性の現れ方や組み合わせ、そしてそれによって生じている生活上の困難などを含めて、支援が必要な状態として捉えられています。

つまり、「発達障害」というカテゴリーがある本来の理由は、すでに存在している困りごとを理解し、必要な支援につなげることなはずです。

だから、私はときどき思うのです。

「発達障害」という言葉が一人歩きをしているのではないだろうか。と。

「個性だから大丈夫だよ。」

それは、私には、一人歩きし始めた「発達障害」という社会イメージから目をそらす為だけのような言葉に聞こえてしまう時があります。

そう言って理解を示しているつもりでも、そこから本当にその人を見つめることができているのでしょうか?

それが、その場しのぎの優しさのように感じる時があることは、私の中の事実です。
そして時には、ちょっと雑な優しさのオブラートに包んで、「私は気にしないようにするからね」と、放っておかれるように聞こえてしまう。そんな風に感じてしまうのは、私だけなのでしょうか?

これは、私自身が「発達障害の子育て」と向き合ってきた中で感じてきたことです。

私が「発達障害」の特性について考えたこと

理解を示す女性のイラスト

私が「発達障害」と出会った時にまず思った事があります。
それは、
「発達障害」といわれる人とそうでない人の違う点は何だろう?
ということです。

発達障害の特性として挙げられることが、「発達障害」と言われない人には無いのだろうか?と疑問に思ったのです。
むしろこうした特性は、程度や現れ方に違いがありながら、多くの人が何らかの形で持っているものなのではないかと思いました。

それに、「自分の脳に、発達障害でよく言われるような不得意さがあったとしても、日常生活の中で、それが不得意だと気づかないことも多いんじゃない?」

そんなことを思いました。

例えば、「こだわり」。
こだわりを持つ人は、発達障害のある人だけでしょうか。

「こうあるべき」
「このやり方が正しい」

そう考えてしまうことは、多くの人にあるのではないでしょうか。

また、そのために相手の気持ちを決めつけてしまったり、自分の考えが正しいと思い込んだりすることも、誰にでも起こり得ます。

発達障害のある子どもの「決めつけ」に困っている親自身も、実は同じことをしていることがあると思います。
私自身もそうです。
特に子どもたちに怒るとき、

「私は、自分のこだわりでこちらがいいと思い込んで怒っているんじゃないかな?」

そう思うことが何度もあります。

でもなぜ、人は「発達障害を持つ人はこだわりが強い」とくくるのでしょうか?

それは、その誰でも持つものが少し目立ってしまっているからだと思います。

けれど、それって、『ちがう』ことなのでしょうか?

確かに、周囲が困ったり、本人がそれによってよくない印象や、逆に評価を受けたりするかもしれない面では違います。けれど、とれは、「発達障害を持つ人」をそうでない人とは違う存在だと思うことと=(イコール)なのでしょうか?

個人的な意見としては、
カテゴリーに分けられていること。
そして、「発達障害」という言葉が本来とは違う意味でうけとられることで、本当は自分の中にも見つけられるかもしれないものを、「自分とは違う」と切り離してしまう。

そんなことが起きているのではないかな?と私は普段から感じています。

たとえば、
「人は、自分に都合の悪いことを言われると反発してしまう」ということ。
日常生活の中でも体験しませんか?
こういう言い方をすると、「まあ、私にもあるよね」と思えたりしないでしょうか?

ところが、「ASDの人は、不安が強く、警戒心も強いので、しばしば相手の意図を読み違えて防衛的になりやすい」
と聞いたとします。

そうすると、今度は、

「ASDの人はそうなんだね。私はASDじゃないから、わからないな。」

と、急に自分から切り離してしまわないでしょうか?

でも実際には、その特徴の“程度”や“出方”が違うだけで、土台となる心理機能は誰にでもあると思うのです。

私は、このことを意識して、「発達障害」を見ることが大切だと思います。

と、いうわけで、
これを書くにあたって、一度、人には当たり前に起こること(心理や認知の仕方など)について、専門的に当てはまるのではないかということを調べてみることにしました。

※ここでの視点や専門知識は、あくまで、私が疑問を持ったことに対して当てはまるのではないかということを調べて例えとして挙げているものです。私は専門家ではないので、少しニュアンスが違うこともあるかもしれませんが、「発達障害」を持つ人が、人として「異なる」のか、また、無意識にそう思いがちではないか、について考える一つの意見という視点で見ていただけると嬉しいです。

心理学的な視点「カテゴリー化」

人間は、複雑な情報をそのまま処理するのではなく、認知的な負担を減らしながら理解しようとします。その方法の一つとしてこのカテゴリー化がされると考えられているそうです。

人間は、複雑な現実をそのまま扱うのではなく、「これは私」「これはあの人」のように様々なものをカテゴリーに分けながら理解しています。

これが「発達障害」というラベルになると、「これは” 人間一般の特徴 ”ではなく” 発達障害 ” というカテゴリーの特徴」という認識に変わりやすくなるのではないでしょうか。

本当は、連続している性質に診断や理解のための境界線を引いているだけなのに。

たとえば、

  • 忘れ物をする
  • 時間管理が苦手
  • 相手の気持ちを察しにくい
  • 感情が爆発する
  • 切り替えが苦手
  • 自分のやり方に固執する
  • 曖昧な状況が苦手

こういうものは、程度の差こそあれ誰にでも起り得ることです。

ところが、「これはADHDの特徴です」と言われると、「ADHDの人の話」になってしまう。
このような状態のことです。

参考記事「日本の人事/認知資源とは」
参考記事:「科学辞典/カテゴリー化」

脳科学的には「自分」と「他者」の見方は同じではない

自己参照効果、基本的帰属の誤り

脳は「自分について考える」時と「他人について考える」時で、同じようには処理しないようです。

情報を受け取った時に自分との関係や、経験、価値観に当てはまるかと考える心の動き(自己参照効果)があるそうで、これは「自分ごと」と捉えることで記憶の定着につなげる学習方法にも用いられるそうですが、こうして自分に関連する情報は自己参照処理によって強く処理されます。

ところが、例えば、「これはASDの特徴です」という外側のカテゴリーで情報が示されると、

自分」ではなく「対象物」について考えるモードに入りやすくなります。

つまり、「私にもこういうところがある」ではなく、ASDというカテゴリーにはこういう特徴がある」という観察者の位置に思考が移動する。

これは決して悪いことではなく、客観視するためには非常に役に立ちますが、その客観視の方が強くなってしまうと、「自分とは関係のないカテゴリーのもの」と思いやすいということだと思います。

そしてこれも、「基本的帰属の誤り」という、認知バイアスがあるそうで、簡単に言うと、自分ごとに関してはその背景を考える(そうなった理由)けれど、他者はその時の外的な要因などは考えずに人の性質であるととらえやすいという認知の仕方です。

他人には「あの人はそういう人だから」と、個人の性質に原因があると思いやすいけれど、

自分には「こういう事情があったから、疲れていたから」と思うなんてこと、日常的にあるのではないでしょうか?

つまり、人に起きた出来事を見る時は、他人のことだと無意識に感じやすいので、認識に差があり、自分ごととして見直す思考も働きにくいのかもしれません。

参考記事:https://www.jumonji-u.ac.jp/sscs/ikeda/cognitive_bias/cate_m/m_15.html

参考記事:ビジネス心理学の法則辞典/基本的帰属の誤りとは何か

スティグマと「自分は違う」という境界線

スティグマとは、特定の属性や疾患などに対して、社会的な偏見や否定的な意味づけが行われることで、その人が不利益を受けるような「烙印」を指す言葉なのだそうです。

「発達障害」と言葉にも、普通/普通ではないという社会的なイメージがついていることは事実としてあるのではないでしょうか?

そうすると「自分もその特徴を持っている」と認めることが単なる「自己理解」ではなくて「自分は普通ではない」という自己評価や、社会的なイメージにつながってしまうことになるかもしれません。

すると、人はそれに抵抗したくなるかもしれません。

そして、自分のイメージを守るためにも「それは違う」と判断する。

そして、自分と相手の間に境界線を引いてしまう

ここには、「自分は大丈夫だと思いたい」と言う心理も関係してくることがあるのかもしれません。

参考記事:Dr,KATOの脳の教室


防衛心理として見るとわかりやすい

こうしてみていくと、私はこの心理にとても人間味を感じます。
人間にとって”よくあること”なのではないかな?と思うのです。

誰でも、自分を悪く言われたり勘違いされるようなことがあると、心理的には自分をかばいたくなるのではないでしょうか?いわゆる「自己防衛」です。

例えば、「発達障害の人は、自分の思い通りにならないと怒りやすい」という話を聞いたとします。
そうすると、もし自分にも同じ部分があると、

「……あれ? 私もそうじゃない?」

と思ったとする。けれど、それを嫌だと感じ、無意識に避けたいと思うとする。

なぜなら、「私はいい人でありたい」という自分自身のイメージが揺らぐ、自分にとって危険なことかもしれないからです。

だから、「私は違う」「私には事情がある」「あの人は特性」と境界線を引く。

つまり、「私は一般的/相手は特殊」という安心できる構造を維持するために、脳は自分と相手に境界線を引いてしまう可能性は、当たり前にあるのではないでしょうか。

私はそう考えています。

発達障害の特性は人の脳としてありうること

こうして考えると、「発達障害」の特性は本当にそんなに特徴的なものなのかな?となりませんか?
こうした事は、多くの人間関係で起こることなのではないかと私は思います。

私は、今までのことを逆に当てはめると、「発達障害」の特性には、人として自分を守るために備わった脳機能や心理にとても敏感に反応したり、あるいは本能レベルで強く反応してしまったりしやすい。ために目立ってしまう。そんな見方もできるのではないかな?と感じています。

そして今回、いろいろ調べる中で、自分に起こったことについて一つ確信に近いものを得ました。
それは、なぜ私は、「発達障害」の知識を入れれば入れるほど、一度、苦しくなってしまったのか?ということです。

私は、始め、今と同じように思い、発達障害を特別視していませんでした。ところが、わが子や夫のために、「発達障害のことについて知ろう」として勉強しているうちに、一度、「発達障害」というものがどんどん自分から離れていき、自分の手の届かない、一生理解のできないもののように感じて絶望感を味わうことになってしまいました。

これはきっと、その人たちを理解するための言葉が、逆に自分と相手の間に壁を作ってしまった事で起きたのだろうと思うのです。

それは脳の認知の問題、心理的な問題、社会的なイメージとしてのスティグマ。

様々な要素が複雑に絡み合って、理解のために作られた「発達障害」というカテゴリーが、一人歩きすることで、かえって理解を妨げてしまったということではないでしょうか?

人の特性は連続している

近年、発達障害については、特性を連続的なものとして捉える考え方も広く知られるようになってきました。
ASDも、「自閉スペクトラム症」と呼ばれています。

「スペクトラム」という言葉には、境界線で完全に分かれているというよりも、連続的な広がりを持つものとして捉える考え方があります。

ASDやADHDのような発達障害の特性も、「ある」「ない」ときっぱり分かれているものではありません。

誰にでも多少の不注意やこだわり、感覚の偏りや対人関係の苦手さなどは起りえます。

その特性の現れ方が強かったり、複数重なったり、生活の中で大きな困りごとにつながっている状態を、発達障害として捉えることがあります。

つまり、

「発達障害の人だけが持つ特別なもの」

ではなく、

誰の中にもある特性の延長線上にあるもの

という見方ができるということです。

私は、この感覚がとてもしっくりきます。

なぜなら、最初から「自分とは特別に違うもの」として区別するのではなく見てみると、自分の中にも共通する感覚を見つけられることは当たり前にあるからです。

これは持論ですが、私は、その感覚を1ミリでも知っていれば、そこから理解に向かうことができる。と思っています。

ただし、完全に理解し合うことができない存在だということも、とても大切な考えだと思っています。
これは、「発達障害」に限らず、人間としてが前提です。
これに関してはまた、どこかで書こうと思っています。
でも、それは決してネガティブな意味ではありません。
それぞれに、自分にしか見えていない世界がある。そのことを受け入れる余白の為にも大切な考え方だと思うからです。

まず、1ミリの共通項から自分ごとにつなげてみる
そして同時に、「わかったつもりにはならない」という余白も持つ。

私は、これが「スペクトラム」に込められた意味なのではないかと思っています。

自分ごととして捉えてみる

例えば、「ASDの人はこだわりが強い」を、
「こだわることって人間にとって何だろう?どういう時に起きるんだろう?」と考えてみる。

それは、

  • 自分の安心を守りたい
  • 予測できる状態を維持したい
  • 大切なものを守りたい
  • 混乱を避けたい
  • 自分のやり方を維持したい
  • 疲れないようにしたい

という、人間一般の心理に戻ってこないでしょうか?

これはあくまでASD傾向のある夫やASDの娘たちを見ている私のイメージです。
ただ、ASDの場合は、それが特定の形や強さ・頻度で現れることがある。
また、疲労や不安、身体的・精神的な状態、環境などによって、特性の現れ方が変わることもある。
同じ人でも、強く出る時もあれば、出にくい時もある。

ここからさらに自分ごとにしてみると、
「人間、みんな不安定な時はイライラしたり、小さなことが気になったり、思いもしない行動をとったりするよね」となりませんか?

「ASDの人を理解する」から「人間の一つの現れ方としてASDを見る」へ。

私は、このほうがお互いの負担を少なくしながら、理解しようとできるのではないかと思います。

そして、これは「発達障害」に限らない

例えば、

  • 「男はこう」
  • 「女はこう」
  • 「高齢者はこう」
  • 「子どもはこう」
  • 「HSPだから」
  • 「繊細だから」
  • 「親だから」
  • 「教師だから」
  • 「専業主婦だから」
  • 「あの人は○○な性格だから」

など、あらゆるカテゴリーで同じことが起り得ると思うんです。

ただ、ここに、人の心理や認知の構造として、

自分が所属していないカテゴリーほど、「あの人たち」の話になりやすい

そこに難しさがあるなと感じます。

リフレーミング

リフレーミングとは、物事の見方や枠組み(フレーム)を越えて、別の視点からとらえ直す心理学の用語だそうです。

私は、この用語を支援をしている側の方から聞きました。

そして、自分が自然とこの癖を身に着けていることを知りました。

と言うのも、私には、脊椎の形成不全の持病があります。そこで抱える不自由や葛藤はそれなりにあります。その中で、人と比較癖のあった私は、それこそ、一日中人と自分をぐるぐるして思考を巡らせていました。けれどそれは、結果的に物事を前向きにとらえる癖になりました。

なぜ、そうなったかと言うと、まさにこのリフレーミングの効果だったのかなと思います。

私は、自分の抱える不自由を、他人視点で想像を巡らせて、自分に返してくる、そうしたら、案外悩みなんて自分のとらえ方一つだけの世界なんだと実感した。だから、私は比較的辛さを感じずに、自分を憐れむことなくここにいるのだと思ったんです。

だから、私は「発達障害」のことも、

人間に共通する性質
        ↓
程度・頻度・組み合わせ・環境などの違い
        ↓
「特徴」として観察される
        ↓
診断・属性・カテゴリーという名前がつく
        ↓
「○○の人」という人物像になる
        ↓
自分の中にある同じ性質が見えにくくなる
        ↓
「私とは違う人」の話になる

でも本当は、

「その人にしかないもの」
        +
「人間なら誰にでもあるもの」

が一緒に存在している状態なのかなと思っています。

だから私は、「特性を理解する」ことの次に、「その特性を人間一般の中に戻してみる」という作業が、人を理解する上にはかなり大切なんじゃないかなと思います。

カテゴリーは説明の道具ではあるけれど、人間そのものを説明することはできない。

このことを、今一度意識することが大切なのではないでしょうか?

それでも、支援のためには『枠』が必要になる

一方で、「発達障害」と言うカテゴリーが必要ないという話でもありません。

「みんな多かれ少なかれ、何かはあるよ。」

と言われてしまえば、必要な支援につながりにくくなります。

私も、現在は障がい者手帳を取得していますが、手帳を取得していなかった期間が長くありました。
けれど、手帳を取得する前も、取得した後も、私の身体そのものは変わりません。
いつものように不便なことは不便。
困りごとはそのカテゴリーに入ったからといって消えるわけではありません。

けれど、「障がい」という枠ができたことで、少しだけ日常の支援につながり、生きやすくなりました。

発達障害も同じではないでしょうか。
診断名があるから困るのではありません。
困りごとは、その前から存在しています。

名前がつくことは、その困りごとを理解しようとする誰かとのつながりや、困っていることに気づいてもらうための一つの手がかりなのだと思います。

「発達障害は個性」という言葉のその先へ

私は、「発達障害は個性」という言葉を否定したいわけではありません。

ただ、その言葉だけでは、本人が抱える困りごとや生きづらさを十分に表現できないことがあると感じています。
そして、時にそれは本人の困りごとと釣り合わない言葉であることもあるかもしれないと感じています。

私たちが本当に考えたいのは、「個性か、障害か」ではなく、

人は誰しも特性を持っている。
その中で困っている部分をどう知ろうとするのか。
そして社会の中ではどう理解し、支援を届けていくのか。

私は、そのことを考えていきたいと思っています。

発達障害という名前は、本人を苦しめるためにあるのでしょうか。

それとも、すでに存在している生きづらさを理解し、少し生きやすくするための手がかりなのでしょうか。

私は、後者であってほしいと思っています。

はは
はは

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。よかったら、ほかのエピソードにも寄り道していっていただけると嬉しいです。↓

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