「日常ー学び」では発達障害を持つ我が家の姉妹のエピソードや、そこから学ぶことと、ちょっとクスっと笑える日常の会話など、息抜きになるようなお話も書けたらと思います。
今回は発達障害の子の子育てを通して、私に起きたいい変化の2つめについてのお話しです。
子どもたちと向き合いながら、自分自身とも深く向き合うことになったこの数年間。
その中で、私は「他人の目を気にする」生き方から、「自分にとって本当に大切なことを基準にする」生き方の大切さに気づいていきました。
ここではその一つ「他人の目を気にしない」こと。について書いていきたいと思います。
↓↓このお話はこんな人に読んでいただきたいです。↓↓
良い変化 その2 他人の目を気にしない
発達障害をもつ子の言動と「他人の目」との葛藤
子育てをしていると感じることなのですが、周囲の反応が気になり、子どもを注意してしまうようなことはありませんか?
発達障害の子どもは、時に周囲に理解されにくい言動をとることがあります。
我が家の場合は、外でも構わず歌い出したり、キャラクターになりきって話し続けたり。
積極的に他人に話しかけたり、かと思ったら突然恥ずかしがって何も言わなかったり。
突然思いもよらないことで癇癪を起こしたり。
こういう時、親としては周囲の視線が気になって、思わずやめさせようとしてしまう気持ちが出てくることは無いでしょうか?
私の場合で言うと、個人的に子育てをする前からそういう親を目にするたびに気になっていて、自身が子育てをするようになってからは特に気を付けようと心がけていた点ではありました。
しかし、いざ子育てを始めるとそううまくはいきません。
なんだか伝わらない。伝わったと思ったのにまたすぐに同じ行動をする。といった子どもの態度に混乱もしていました。
さらに難しいのは、発達障害の子の子育ての場合、子どもがそこそこ大きくなってきた段階でこの問題に大きな葛藤が出てくるのではないかと感じるところです。
理由は、やはり他者との比較などの意識を持ちにくい発達障害児は他の子より幼かったり、個の感覚を優先しやすいことが協調性の発達をゆっくりにさせてしまいやすいからだと考えています。
我が家の場合は小学3年生の頃にはその問題が大きくなってくるのを感じました。
そして、その差はどんどん開いてくる。
我が家の姉妹はそれぞれ、他人から見ると「不思議」さを感じることがあるだろうなという行動が多々あります。
例えば長女は他者比較が弱いためか、幼い言動が目立ちます。また、キャラクターを演じたり、次女をキャラクターに割り振ってそのキャラクターの名前で読んだりするので、つい周囲の目を気にしてちょっと焦ります。
次女の場合は、認知の歪みからか、例えばバスの座席で隣の長女がくっつくような距離で座ると「押されている」と感じ怒り出します。
そんな、外からは何故?と思わせるような反応を見せるのです。
ははには何が起こっているのかわかっているし、いつものことで、ここで「やめなさい」や「静かにしなさい」が逆効果だったりすることもわかっています。
ですが、つい注意もできない親だと思われてしまうという周囲の印象を気にするあまり説明的な言動をしてしまいたい気もちとの葛藤が出てきてしまいます。
また、こうやって、何となく常に外での体裁を意識下で気にしている。ということが、子どもにも悪影響になってしまっているのではないかという葛藤もありました。
自分の経験が子どもたちの現状と重なった
少し私の持病の話になります。
私が、まず子どもたちの発達障害について気づいたとき、本人たちにもどうにもできない違和感があるのだろうと思ったことが、自分が持病によるもどかしさを抱える体験と重なりました。
本当は「大きな違い」なんてないのに何か特別に違うと思われること、自分でも「違い」を考えさせられること。もし「違い」があるならばそれは多くの人とは違う場所にあって自分にしかわからない世界観であること。
その人それぞれに当たり前があって、その違いに優劣なんてないと思うけれど、ついつい優劣をつけてしまう社会。
これから、この子たちはどんどんとそれに触れていく事になる。
こういうことは片方がその世界の存在に気づいていてもどうにもならないことだと私は知っています。
その感覚はふとした時に出てきて孤独を抱えてしまうことで、誰も何も悪くはないのにどうにかしないといけないと思ったりするのです。
感覚的な話になってしまいましたが、
「違い」は優劣ではなく、ただの違い。社会はどうしても優劣をつけがちだけれど、それに流されない視点が大切だと私は思います。
つまり大切なのは、自分が多くと違いを感じた時に「自分が自分でいられる自己肯定感」を育んでいってもらうことじゃないか?
発達障害というものに出会って私はそう思いました。
周囲の目 vs 子どもへの配慮?
そうやって考えると、「周囲の目」と「子どもへの配慮」は並べずともどちらが大切かは私の中で明確になりました。
もともと他人の目を気にする性格だった私ですが、こうして「他人からどう見られるか」ではなく「この子にとって何がベストか」で判断できるようになりました。
「わかりにくさ」を理解しようとする存在になりたい
発達障害のある子どもたちは、これからきっと、たくさんの「違和感」に出会うことになると思います。
何かが少し違うだけで、「変だ」と見られる社会。
本当は違わないのに、わかってもらえない孤独。
その他大勢、過半数の意見はとても大きい壁になってしまう。
ただ多いだけなのに。なんて思うのですが…。そこで育った自分もそこに流されてしまうのも事実です。
そんな社会の中で「違い」を「ただの違い」と認識するためには「わかってくれようとする存在」があること。が大切なように感じています。
常にわかってくれようと思う大人が近くにいるのとそうでないのでは雲泥の差だと思います。
そういう人がいて、子どもたちが安心して成長していければ、後は子どもたちが自分で違和感を排除しない人たちと出会っていける未来があるのではないかとすら思います。
その存在になりたいと、私に思わせてくれた子どもたち、こうやって親になっていくんだななんて思いながら、いつもガミガミ起こるははでも、ははなりに子どもたちに感謝をするようになりました。
まとめ
自分の中でも他人の目を気にすることはなかなか改善できない課題でした。
発達障害の子の子育ては私にとってそれに対して向き合うきっかけになった決定的な出来事でした。
他人にどう思われるかよりも、自分が大切にしたいことに忠実であること。その大切さを実感しています。
子どもたちが偏見なく、自分は自分で良いことを肯定できる楽しい人生を送ってくれること。
それが、自分が大切にしたいこと。
大切な子どもたちのことを考えたら、周囲の目なんて何も気にすることではないと自信をもって思えるようになりました。
発達障害を持つ子の子育てって本当に大変です。
けれど、気づいたら、こうして人としてとてもとても大切なことを教わっているのだなと思うことがあります。
無邪気に手が付けられないわが子たちは、実は私を導いてくれているんだなと時折感謝する。
今回はそんな、私の大切な感謝を書き留めておきたいと思います。
↓↓ 「外で怒る」ASD次女の癇癪に対応する際に思った事が書かれている記事です。 ↓↓

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。よかったら、ほかのエピソードにも寄り道していっていただけると嬉しいです。↓
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