カサンドラ症候群 発達障害を理解したい。とはいえ、しんどい。

頭を抱える女性 発達障害

この記事では、発達障害をもつ子どもとグレーゾーンの夫に向き合う毎日に、ふっとこみあげてくる私の本音について、そして、それに対する私の今の向き合い方を書いていきたいと思います。

自分もしんどい!!って言いたい方。言っていきましょう!

そして気を取り直して毎日に戻る。…けどまたしんどい!!

定期的に自分の本音を探っていけるような機会になれたら嬉しいなと思います。

※この記事は2025.2025.06.27に書いた記事を2025.08.23に書き直したものです。

このお話で分かること

  • 発達障害に向き合う人のもやもやについて
  • カサンドラ症候群について
  • 自分のもやもやを探ることについて
  • 「しんどい」と言うことの大切さ

発達障害を理解したい。とはいえ、しんどい。

はは
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しんどい。

伝わらない家族の中で伝えようとする毎日がしんどい。

何か私だけが奮闘しているように感じてしんどい。

周りに理解されなくてしんどい。

難しくてしんどい。

なんか、もう、私がこの子たちの母親でいいのかわからなくなってきた。

落ち込む女性

発達障害の子の子育てをされている方、またはパートナーが発達障害やグレーゾーンの方、もしくはその両方と向き合う方へ。

発達障害でなくても、ただでさえ子育ては自分とは違う一人の人間を育てるわけなので、理解できない部分もあって、しんどくなることがあると思いますが…。

それにしても、しんどい。って言いたくなりませんか?

実は、最近ようやく私はこう言っていいんじゃないかと割り切れてきたところです。自分の気持ちを理解することの大切さと危うさの間で奮闘しながら、けれど、少しずつ自分を受け入れていかなければ結局は進まないなーと思う今日この頃。

「しんどい」はいまのところ、私の最大のテーマです。

日常に潜む”孤独感”

しんどい

その、言葉の中にどれだけの感情が含まれているか。

わが子を理解したい

パートナーを理解したい

本人たちは少数派なだけにくみ取ってもらえないわかりにくさがあるので、私だけはわかってあげなければいけない。

子どもたちも、パートナーも頑張っていることはわかる。だから伝わらない部分は私がくみ取って、いい形で還元していかないと、このままでは子どもたちの成長の悪循環になる。少しでもこの子たちにとっていい環境を!

子どもやパートナーは自分よりも大変

そう思って、普段はどれだけ前を向こうとしていても、正直いうと、どうしようもない感情がふっと湧いてきます。

今まで、家族の問題を回避しないで懸命に向き合ってきたつもりですが、私はその中でふとさみしくなったり、とてつもない怒りがわいたりしていました。

”孤独”

今、私が抱えている感情が言葉として浮かんできたとき、「ああ、これがしっくりくるかもしれない。」初めはそんな程度の想いでした。

いやいや、でも、子どもにかかわる周りの大人は、話を聞いてくれて、協力しようと思ってくれているし、何が孤独だ?

そんなわけがない!頑張らねば!!

しんどい。

そして、数日も待たずにはっきりと、この何とも言えない悲しみやさみしさが”孤独感”だと確信するようになりました。

すると、自分は家族がいて幸せだと思っている。なのに、孤独感を感じるなんて…。

なんだか、周りの人にとても申し訳ない思いでいっぱいになりました。

自分が贅沢なのかとか、自分のことを知ってほしい欲が発動してるとか、とてもよくない考え方をしているのではないかと、私はさらに自分を追い詰めるような意識現実を理解したいもどかしさで、頭と心がぐちゃぐちゃになっていました。

孤独感の正体

でも、ある日ふと思いました。

はは
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あれ?私をわかろうとしてくれる人は何処にいるの?

私が周囲を知ろうとしている中で、この思いを周りが知ろうとしてくれない。

身近な大人は私が提供する情報や考えに「そうだね。」と言ってはくれます。ただ、とても皆が受動的なことに、私は疲れてしまっていました。

私は、子どもたちと、子どもたちにかかわる数人の大人、ちち (夫)、それぞれに、懸命に伝え方を考えて、タイミングを考えて、伝えて、それに対する手ごたえがほとんどないことに虚しさを感じていることに気づきました。

みんな、私がわかろうとしてくれていいな。

いっそ思い切ってそう思ってみました。そうすると、何となく自分の孤独感を認められました。

これが私の抱いている孤独感の正体でした。

カサンドラ症候群

カサンドラ症候群とは?

カサンドラ症候群とは、パートナーや家族などの近しい人が、自閉スペクトラム症(ASD)など、共感したり情緒を表現することが苦手な症状を抱えていて、相手とのコミュニケーションがうまくいかずに心身の不調をきたす状態のことです。あくまで状態のことを呼ぶもので、疾患や障害として医学的に確立しているわけではないそうです。

参考:新橋メンタルクリニック「カサンドラ症候群」とは何か~一番近しい人と、共有できない~

参考:Kaien カサンドラ症候群とは?原因やなりやすい人の特徴と対策

私に起こっていた症状

この、カサンドラ症候群、その状況や症状を聞くと、どうやら私の状態と同じようでした。

経験していた症状を思い出せる限り書くと

  • 強い倦怠感
  • 頭痛
  • 体重増加
  • 体重減退
  • めまい
  • 動悸
  • 無気力(趣味も全く楽しいと思わず、全くできなくなりました。)
  • 孤独感
  • 情緒不安定
  • 自己肯定感の低下
  • ふいに涙が出る(夜になると涙が出て眠れないことがありました)
  • 早くて午後3時、遅くても午後7時頃から数時間、どうしても体が動かなくなる

このほかにも、2度ほどですが、ちち(夫)がセットしていた早朝のアラーム音に目が覚めて、強い不安、焦燥感、動悸で気が狂いそうになり、音が少しでも聞こえると不安と恐怖で耐えられず、別室に移動して状態が落ち着くまでしばらく何とも言えない恐怖と焦燥感に襲われることがありました。

これが今のところ私が体験した精神症状の中で一番恐怖でした。さすがに自分が何かおかしいことになっているのではないかと不安でいっぱいになったことを覚えています。

ただ、当時、私は持病の手術をして痛み止めを処方されていました。そしてこの薬が合わず、一年以上の副作用に悩まされていました。

私の場合、振り返るといろんな心身の変化が起こっていたので気づきそうなものですが、薬の身体的な副作用症状と精神的限界のタイミングが重なったことで、余計に自分のうつ症状に気づけなかったのではないかと、今となっては思います。

あるいは、限界を迎えていた心身が薬の副作用によって、さらに身体的うつ症状を助長していたようなことがあったのかもしれません。※単なる私の憶測です。

改めて思い出してみると、これだけいろいろとあって自分でもびっくりしていますが、自分がカサンドラだと思ったきっかけの一つには、これらの症状が改善してきた頃に、同じくカサンドラ経験者の情報をネットでいくつか見たことでした。何となく言葉と意味を知ってはいたのですが、専門家や体験者の具体的な話を聞くと、見事なまでに同じ思いや悩み、状態に苛まれていたと分かりました。

「え、気づくのっ遅!?」(このセリフ何回言うのか 笑)回復してきていた私は思わず突っ込みました。

はは
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私の体って、私に気づかれなさ過ぎてかわいそう 笑

カサンドラ症候群の始まり 子育ての違和感が共有できない

今思えば、母になって間もなく、私は子どもたちのそのあまりにもマイペースな姿に不思議さを覚えていました。

幼少期から不思議ちゃんで超絶マイペースな長女を見て(※長女はこの記事の当初では発達障害の診断は出ていませんが、その後ASDと診断されました。)また、出産後すぐの次女の様子を見て、そしてその子どもたちの成長と共に増大していく私の抱く違和感が全く伝わらないちち をみて、うっすらとですが確実に違和感をつのらせていました。

特に、ちち には子どもたちの反応は何も不思議の無い世界観だったようで、「子どもだからそんなものだろう。」と、話が終わってしまい、夫婦で子どもの違和感について考える時間を持てないことが悩みをさらに増大させていました。

私としては、どちらが間違っていてどちらが正しいという話ではなく、子どもたちの不思議な部分が、今後この社会で子どもたちが困る要因にならないかの相談をしたかったのですが、ちちにはおそらく、「少しマイペースと言っても…」と首をひねる私が、子どもたちを否定しているように聞こえていたのでしょう。
そもそも ちち は違和感を感じていないので、無理もありません。
※当時はまだ、発達障害という言葉を、私はほとんど認識していませんが、想像できる懸念はたくさんありました。

また、幼稚園の先生や、園バスの運転手さんの何気ない会話からも、先生たちが子どもたちに些細な違和感を感じているような?と感じることがあり、私はできるだけ第三者の視点の印象も併せて ちち に説明するのですが、ちち にすればそんな親でもない第三者の意見は関係ないといった様子でした。

結果、当時の私は、ちちへ相談すればするほど、ちち が、私の感覚をおかしく思っているような印象さえ受け取っていて(おそらくちち はそう思っていたと思います。)より違和感と不満をため込むことになります。

それは私が発達障害というものを知り、ちち がそのことを少しずつ飲み込んでくれている今現在まで続いてきました。

その間、私は「いつ、そのことで子どもたちが困りごとを抱えるだろうか…。」という不安と違和感を誰にも受け止めてもらうことがなく過ごしていました。

おばあちゃん(私の母)は?というと、孫を頻繁に見てくれていたのですが、ここが知的発達を持たない発達障害の場合の難しいところで、外から見るとわかりづらいという特徴に違わず、伝わっていませんでした。

私も子どもたちの違和感を伝えてはいましたし、おばあちゃんも、数時間一緒にいる間の子どもたちのリアクションに違和感を持ってはいたとは思いますが、性格なのか?という認識にとどまっていて、実際一日を過ごすことが無ければ可愛い程度に思えたのだと思います。

結局、私の手術入院で、2週間、おばあちゃんが我が家を体感してもらうことになるまでは、伝わることはありませんでした。

加えて、私の体は持病の影響で外出のダメージが大きく、家事がよりつらくなることを避けて、最低限の外出しかできずに、幼稚園もバス登園だったため、ごく少人数のママ友しかおらず、この違和感を確信できるような第三者の意見に触れることもありませんでした。

後に次女の幼少期を知るママ友2人に次女がASDの診断を受けたことを話す際、幼少期の次女があまりにも愚図る反応が激しかったために、「うちの次女、大変だったじゃない?」というと間髪入れず二人同時に「うん。」と首を大きく縦に振ったのには笑ってしまいました。

が、自分が感じていたものは、わかるひとにはやはり違和感を感じることだとわかった出来事でもあります。

やっぱり発達障害を理解したい。やっぱりしんどい。

孤独感に気づいた先の「次の何か」の正体

そうして、自分の孤独感の原因に気づいた私。

「あれ?私は周囲の大人との双方向のコミュニケーションの中で、問題の対策を考えてると思っていたけど、現実は一方通行で、そのギャップにしんどかったのか」と具体的に言語化して今の状況を再確認しました。

あ、そりゃあ無理だ。それはしんどいに決まっている。

ようやく私は身体だけでなく、精神的にもしんどいことがはっきりと自覚できました。

なんだか気が抜けました。現状はどう見ても、私しか奔走していなかったのです。まさに、空回り状態。

現実の子どもの状態と、それを踏まえて集めた情報から、子どもたちに起こっていることや対処の仕方を共有しようとしても、周囲は本当の意味でその違和感や難しさを体験していないので理解が難しかったり、それらは感覚的にとらえなければいけないことだったりすることで共有が難しかったりするのです。

また、理解できてもそに向き合おうとすると、まず、子どもたちの状態を敏感に察知することが必要なため、ほかでは対処できないことも多くありました。

そもそも、情報を入れたからと言って、子どもの状態が何となくわかったからと言って、簡単に対応ができるならば、私も周りに協力を求めなくてもいいかもしれませんし。

さらに我が家に関しては、それを、雰囲気・イメージ・違和感、などという抽象的な表現をふんだんに含んで表現する私と、感覚的なものに関しては過去の情報収集してきたものの中からくみ上げてイメージできるが、言葉の意味や理論に意識の向きやすいASDグレーゾーンのちち との間では共有が人一倍難しいことは、今なら想像できます。

はは
はは

感覚、違和感、雰囲気、社会との相互作用、(私からすると)明らかな将来の懸念…

社会の中で一人の人間として自信をもって生きていくことを前提の心配

VS

ちち
ちち

自分の中で成り立つ経験上の情報、分析、言葉の意味、表現の意味

そもそも同じところにいない…。

そうして、気づけた私は楽になったのか?というと。

「じゃあ、どうすればいいの?結局、私が全部を回さないといけないの??」と、

当たり前にまたしんどい。が帰ってきます。そして、そのしんどい。は気づかないうちに微妙に姿を変えていって、「次のしんどい何か」になっていってしまっていました。

自分の孤独に気づいたわたしは一旦落ち着いたけれど、気づいたことによって、次のもやもやが私の中に芽生えて、新しい問題が生まれてしまったのです。

それは、理解してもらえないことに気づいた私が発動した”わがまま”でした。

私を理解してほしいと思う自分 > 誰かを理解したいと思う自分

さて、その”わがまま”とは?

自分がしんどいことに気づいたわたしは、周囲になぜしんどいのかを知ってほしい!!という思いが強くなりました。

そして、私のことも誰か理解してくれ!!!という思いが、子どもたちやちち(夫)を理解したいという思いを上回ってしまったのだと思います。

発達障害についての理解を深めて、子どもたちや父を理解したかったはずの私は、いつの間にか問題を”自分が理解されなくて辛いこと”にすり替えてしまっていたのです。

自分の抱える問題を解決するためにしたこと

そこでわたしは、まず自分の抱えている問題を解決することが必要だと思いました。

その為に、私はまず、ちちと向き合いなおさなければいけないと思いました。

これを打開するには、一番身近で協力してもらうことになる、家族であるちち に今の私の状況と正直な気持ちをつたえることが必要だと思いました。

そして、ちち には、自分のカサンドラの精神状態と、とにかく付きまとう孤独感、その要因、しんどいことを伝えました。

そして、お互いに宇宙人に感じることが当たり前だということを前提に、お互いの考え方、感じ方を改めて一から知っていく気持ちで向き合っていくのはどうかと提案しました。

ただ、伝えたものの、直後はまだ、お互い状況をかみ砕けていませんでした。私もまた、いまいち伝わらない思いにかられていたからでしょう。

結局そこからしばらくの私は、ちち にそうは言ったものの、知りたいことより、知ってほしいことの方が強く、それが、なんでわからないんだ!!と周囲に出てしまうようになりまし

私を理解してほしい 誰かを理解したい という状態。

私はまた、子どもたちにしつこく怒るようになってしまいました。

はは
はは

また怒りだしている…今まで長い間抱えていた思いの分、そう簡単には解決しないよね…?できることはやったと思うし、これから少しずつ、私の中でこの気持ちが分解されていくのを待つしかないかな?

今できること

今はそこまで

今はちちに伝えたこの気持ちを、まだ消化中なのだと思っています。

これから、子どもたちに怒ってしまう自分を振り返って、その必要があったのか、自分の意見の押し付けで怒っていないかを振り返りながら、少しずつ改善していくことが必要だと感じています。

とはいえ、しんどい。

毎日必要以上に工程の多い子育てになってしまう発達障害児、けれど、それはいい、悪いの話ではなく、彼女たち自身がそういう気質で、それもまた大切なこと。

現実に発生する生活の困りごとと対処ができない事態に相変わらず、難しいけど諦めはしません。

でも、たまにはしんどい。

わかっちゃいるけど、私の会話の意図しないところで引っかかってしまったり、正解を求められていると思ってプレッシャーを感じたり、否定されていると思って黙ってしまうちち。

けれど、それも全部、最初から私の知っているちちなだけ。悪いことでも何でもないし、ましてや、ちち自身もきちんと向き合ってくれている。一緒に考えようとしてくれている。私のことも考えようとしてくれている。それも私の知っているちち。

ちちも、私も、それぞれこういう気質で、それもまた大切。まずは、歩み寄れる可能性のある所から。相手も自分も尊重することを忘れずに。

とはいえ、たまにはしんどい。

しんどいは来ます。

はは
はは

別に誰も悪くないから来たらいいよ!!

それはそれ、これはこれ。 

来たら、「しんどい!!」って堂々と言ってやろう。

そしたら、しんどいと一緒に私自身も微調整していく。それが今私が思うことです。

それがそのうちに、ふたを開ければ私自身も含め、全員の成長になっていたらいいな。

はは
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ここまで読んでいただき、ありがとうございました。よかったら、ほかのエピソードにも寄り道していっていただけると嬉しいです。↓

※この記事は2025.2025.06.27に書いた記事を2025.08.23に書き直したものです。

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