この記事では、発達障害をもつ子どもとグレーゾーンの夫に向き合う毎日に、ふっとこみあげてくる私の本音について、そして、それに対する私の今の向き合い方を書いていきたいと思います。
自分もしんどい!!って言いたい方。言っていきましょう!
そして気を取り直して毎日に戻る。…けどまたしんどい!!
定期的に自分の本音を探っていけるような機会になれたら嬉しいなと思います。
発達障害を理解したい。とはいえ、しんどい。

しんどい。
伝わらない家族の中で伝えようとする毎日がしんどい。
何か私だけが奮闘しているように感じてしんどい。
周りに理解されなくてしんどい。
難しくてしんどい。
なんか、もう、私がこの子たちの母親でいいのかわからなくなってきた。

発達障害の子の子育てをされている方、またはパートナーが発達障害やグレーゾーンの方、もしくはその両方と向き合う方へ。
発達障害でなくても、ただでさえ子育ては自分とは違う一人の人間を育てるわけなので、理解できない部分もあって、しんどくなることがあると思いますが…。
それにしても、しんどい。って言いたくなりませんか?
実は、最近ようやく私はこう言っていいんじゃないかと割り切れてきたところです。自分の気持ちを理解することの大切さと危うさの間で奮闘しながら、けれど、少しずつ自分を受け入れていかなければ結局は進まないなーと思う今日この頃。
今回は、いまのところ私の最大のテーマ。「しんどい」に向き合った私の話を書いていきます。
日常に潜む孤独感
しんどい
その、言葉の中にどれだけの感情が含まれているか。
わが子を理解したい
パートナーを理解したい
本人たちは少数派なだけにくみ取ってもらえないわかりにくさがあるので、私だけはわかってあげなければいけない。
子どもたちも、パートナーも頑張っていることはわかる。だから伝わらない部分は私がくみ取って、いい形で還元していかないと、このままでは子どもたちの成長に悪循環になる。少しでもこの子たちにとっていい環境を!
子どもやパートナーは自分よりも大変。
そう思って、普段はどれだけ前を向こうとしていても、正直いうと、どうしようもない感情がふっと湧いてきます。
そうして日々を奮闘していく中で、私は自分が”孤独感”を抱えていることに気づきました。
孤独感の正体
しんどい。
孤独。
家族がいて幸せなのに、何を贅沢なことを思っているの?
頑張らねば!!
しんどい。
今まで、家族の問題を回避しないで懸命に向き合ってきたつもりですが、その中でふとさみしくなったり、孤独感がわいたり、とてつもない怒りがわいたりしていました。
”孤独”
今私が抱えている感情が言葉として浮かんできたとき、「ああ、これがしっくりくるかもしれない。」初めはそんな程度の想いでした。
でも数日も待たずにはっきりとそうだなと確信するようになりました。
すると、自分は家族がいて幸せだと思っている。なのに、孤独感を感じるなんて…。
なんだか、周りの人にとても申し訳ない思いでいっぱいになりました。
自分が贅沢なのかとか、自分のことを知ってほしい欲が発動してるとか、とてもよくない考え方をしているのではないかと、私はさらに自分を追い詰めるような意識と現実を理解したい意識の狭間にいました。
でも、ある日ふと思いました。

あれ?私をわかろうとしてくれる人は何処にいるの?
私は周囲を知ろうとしている中で、この思いを周りが知ろうとしてくれない。
身近な大人は私が提供する情報や考えに「そうだね。」と言ってはくれます。ただ、とても皆が受動的なことに、私は疲れてしまっていました。
私は、子どもたちと、子どもたちにかかわる数人の大人、ちち (夫)、それぞれに、懸命に伝え方を考えて、タイミングを考えて、伝えて、それに対する手ごたえがほとんどないことに虚しさを感じていることに気づきました。
みんな、私がわかろうとしてくれていいな。
いっそ思い切ってそう思ってみました。そうすると、何となく自分の孤独感を認められました。
これが私の抱いている孤独感の正体でした。
カサンドラ症候群
カサンドラ症候群とは、パートナーや家族などの近しい人が、自閉スペクトラム症(ASD)など、共感したり情緒を表現することが苦手な症状を抱えていて、相手とのコミュニケーションがうまくいかずに心身の不調をきたす状態のことです。あくまで状態のことを呼ぶもので、疾患や障害として医学的に確立しているわけではないそうです。
参考:新橋メンタルクリニック「カサンドラ症候群」とは何か~一番近しい人と、共有できない~
参考:Kaien カサンドラ症候群とは?原因やなりやすい人の特徴と対策
この、カサンドラ症候群、その状況や症状を聞くと、どうやら私の状態と同じようでした。
経験していた症状を思い出せる限り書くと
- 強い倦怠感
- 頭痛
- 体重増加
- 体重減退
- めまい
- 動悸
- 無気力(趣味も全く楽しいと思わず、できなくなりました。)
- 孤独感
- 情緒不安定
- 自己肯定感の低下
- ふいに涙が出る(夜になると涙が出て眠れないことがありました)
- 早くて午後3時、遅くても午後7時頃から数時間、どうしても体が動かなくなる
このほかにも、2度ほどですが、ちちがセットしていた早朝のアラーム音に目が覚めて、強い不安、焦燥感、動悸で気が狂いそうになり、音が少しでも聞こえると不安と恐怖で耐えられず、別室に移動して状態が落ち着くまでしばらくかかるということがありました。
これが今のところ私が体験した精神症状の中で一番恐怖でした。さすがに自分が何かおかしいことになっているのではないかと不安でいっぱいになったことを覚えています。
ただ、当時、私は持病の手術をして痛み止めを処方されていました。そしてこの薬が合わず、一年以上の副作用に悩まされていました。
私の場合、振り返るといろんな心身の変化が起こっていたので気づきそうなものですが、薬の身体的な副作用症状と精神的限界のタイミングが重なったことで、余計に自分のうつ症状に気づけなかったのではないかと、今となっては思います。
あるいは、限界を迎えていた心身が薬の副作用によってさらに身体的うつ症状を助長していたようなことがあったのかもしれません。※単なる私の憶測です。
改めて思い出してみるとこれだけいろいろとあって自分でもびっくりしていますが、自分がカサンドラだと思った理由の一つは、これらの症状が改善してきた頃に、同じくカサンドラ経験者の情報をいくつか見ていくうちに、見事なまでに同じ思いや悩み、状態に苛まれていたとわかったからです。
「え、気づくのっ遅!?」(このセリフ何回言うのか 笑)回復してきていた私は思わず突っ込みました。

私の体って、私に気づかれなさ過ぎてかわいそう 笑
カサンドラ症候群の始まり 子育ての違和感が共有できない
今思えば、母になって間もなく、私は子どもたちのそのあまりにもマイペースな姿に不思議さを覚えていました。
幼少期から不思議ちゃんで超絶マイペースな長女を見て(※長女は現在は発達障害とは診断が出ておりません)、また、出産後すぐの次女の様子を見て、そしてその子どもたちの成長と共に増大していく私の抱く違和感が全く伝わらないちち をみて、うっすらと違和感をつのらせていました。
特に、ちち には何も不思議の無い世界観だったようで、子どもだからそんなものだろう。と、話が終わってしまうことで子どもについて考える時間を持てないことが悩みをさらに増大させていました。
私としては、どちらが間違っていてどちらが正しいという話ではなく、子どもたちの不思議な部分が、今後この社会で子どもたちが困る要因にならないかの相談をしたかったのですが、そもそも ちち は違和感を感じていないので、話自体に発展しませんでした。
幼稚園の先生や園バスの運転手さんの何気ない会話からも、先生たちが子どもたちに些細な違和感を感じているような?と感じることがあり、私はできるだけ第三者の視点の印象も併せて ちち に説明するのですが、ちち にすればそんな親でもない第三者の意見は関係ないようでした。
結果、当時の私は、ちちへ相談すればするほど、ちち が、私の感覚をおかしく思っているような印象さえ受け取っていて(おそらくそう思っていたと思います。)、より違和感と不満をため込むことになります。
それは私が発達障害というものを知り、ちち がそのことを少しずつ飲み込んでくれている今現在まで続いてきました。
その間、私は「いつそのことで子どもたちが困りごとを抱えるだろうか」という不安と違和感を誰にも受け止めてもらうことがなく過ごしていました。
おばあちゃん(私の母)は?というと、孫を頻繁に見てくれていたのですが、ここが発達障害の難しいところで、外から見るとわかりづらいという特徴に違わず、伝わっていませんでした。
私も子どもたちの違和感を伝えてはいましたし、数時間一緒にいる間の子どもたちのリアクションに疑問を持ってはいたとは思いますが、性格なのか?という認識にとどまっていて、実際一日を過ごすことが無ければ可愛い程度に思えたのだと思います。
結局、私の手術入院で母が我が家を体感してもらうことになるまでは伝わることはありませんでした。
加えて、私の体は持病の影響で外出のダメージが大きく、家事がよりつらくなることを避けて最低限の外出しかできずに、幼稚園もバス登園だったため、ごく少人数のママ友しかおらず、この違和感を確信できるような第三者の意見に触れることもあまりありませんでした。
後に次女の幼少期を知るママ友2人に次女がASDの診断を受けたことを話す際、幼少期の次女があまりにも愚図る反応が激しかったために、「うちの次女、大変だったじゃない?」というと間髪入れず二人同時に「うん。」と首を大きく縦に振ったのには笑ってしまいました。
が、自分が感じていたものは人によってはやはり違和感を感じることだとわかった出来事でもあります。
自分を苦しめる孤独感の「次の何か」の正体
そうして、自分の孤独感の原因に気づいた私。
「あれ?私は周囲の大人と双方向のコミュニケーションの中で問題の対策を考えている思っていたけど、現実は違っていて、そのギャップにしんどかったのか」と具体的に言語化して今の状況を再確認しました。
あ、そりゃあ無理だ。それはしんどいに決まっている。
ようやく私は身体だけでなく、精神的にもしんどいことが自覚できました。
なんだか気が抜けました。現状はどう見ても私しか奔走していなかったのです。まさに、空回り状態。
現実の子どもの状態と、それを踏まえて集めた情報から思うことを共有しようとしても相手は体験していないので難しい。
体験をした後でも、子どもたちの特性をどうとらえてどう対処すればいいのかをある程度、論理的部分と感覚的部分にとらえて言語化することはできても、当然私ができることはそこまでです。
後は、受け取った人がどうするのか。どうもしないのか。発達障害は十人十色、ピンとこないこと、把握できないこと、人によって違う難しいことを、現状や状態を知ったからといって、簡単に対策ができるわけでもありません。
それができれば私も周りに協力を求めなくてもいいかもしれませんし。
さらに我が家に関しては、それを、雰囲気・イメージ・違和感などという抽象的な表現をふんだんに含んで表現する私と、感覚的なものに関しては過去の情報収集してきたものの中からくみ上げてイメージできるが、言葉の意味や理論に意識の向きやすいASDグレーゾーンのちち との間では共有が人一倍難しいことは今となってはわかります。

感覚、違和感、雰囲気、社会との相互作用、(私からすると)明らかな将来の懸念…
社会の中で一人の人間として自信をもって生きていくことを前提の心配
VS

自分の中で成り立つ経験上の情報、分析、言葉の意味、表現の意味
そもそも同じところにいない…。
そうして、気づけた私は楽になったのか?というと。
当たり前にまたしんどい。が帰ってきます。そして、そのしんどい。は気づかないうちに微妙に姿を変えていって、「次のしんどい何か」になっていってしまいます。
自分の孤独に気づいたわたしは一旦落ち着いたけれど、気づいたことによって、次の想いが私の中に芽生えて、次の問題が生まれてしまいました。
私を理解してほしいと思う自分 > 誰かを理解したいと思う自分
自分がしんどいことに気づいたわたしは、周囲になぜしんどいのかを知ってほしい!!という思いが強くなりました。そして、私のことも誰か理解してくれ!!!という思いが、子どもたちを、ちち(夫)を理解したい思いを上回ってしまったのだと思います。
いつの間にか、私の気持ちは自分を理解してほしいという思いをベースに行動してしまう状態にすり替わっていました。
そこでわたしは、まず自分のメンテナンスが必要だと思いました。
かなり勇気のいることでしたが、ちち への正直な気持ちをつたえることが必要だと思い、自分のカサンドラの精神状態と、とにかく付きまとう孤独感、その要因、しんどいことを伝えました。
そして、互いに宇宙人に感じることを当たり前だという前提に、お互いの考え方、感じ方を、改めて一から知ろうと提案しました。
ただ、伝えたものの、直後はまたいまいち伝わらない思いにかられていたからでしょう。
結局そこからしばらくの私は、ちち にそうは言ったものの、知りたいことより、知ってほしいことの方が強く、それが、なんでわからないんだ!!と周囲に出てしまうようになりました。
私を理解してほしい > 誰かを理解したい という状態。
すると私はまた子どもたちにしつこく怒るようになりました。

また怒りだしている…今の問題はちち に正直なしんどい思いを伝えたこと子は別のところで起きているのかも…?
こうやって、今度は理解してほしい気持ちが私を苦しめていたのだと気づきました。
自分を助けるメタ認知
今となってはカサンドラでは?と思われる数々の症状もひとまず落ち着きを見せ始め、自分と向き合う時間ができるようになっていますが、それも、可能な限り自分の心の状態が一つのところにとどまらないように他者の考えを聞き、考えを巡らせることを意識しているからではないかと思います。
これがいわゆる、メタ認知を高めるということではないかなと思っているのですが、私の場合、これは持病のおかげで身についてきた考え方でした。
メタ認知とは、自分の思考や行動を客観的に認識して理解することですが、
私は、持病が常に私と共に痛みやしびれや不自由さを感じさせていたおかげで、それがありきで自分はどうするかを考えるようになりました。

これがあると人生が楽しめないのか?そんなわけないじゃない 笑
そうやって考えるうちに、負の感情を抱いたときに、それを改善するために、負の感情や、負の行動がどこからくるのかを探るという方法をとるようになりました。そして、そこにとどまる思考ではなくて、今何をするかを考える思考に変換するようになりました。

こういう時に今の自分がなぜ起こってしまうのか、とか、そもそもなぜ悩むのかって客観的に考えることが大切だったんだ。
そして、発達障害に出会って教えてもらったもう一つ大切だったことがあります。
それは、客観視できる自分でいること。
私の場合、自分に起きている状態を客観視できるように、疲れていると思ったら、自分を許して趣味やぼーっとする時間を作ること。そのためには自分の状態をさらに客観視しなければなりません。
そのことがわかるようになった今だから、長いカサンドラ状態から回復傾向になってきたのだと思っています。
ただ、それともう一つ、相談できる第三者がいること。人間、理解を示してくれる第三者の存在は必要なものだと思います。私はその点は残念ながら特定の誰かはいません。その証拠に私はまだ時折、理解得ない日常の繰り返しにふと限界がきて、頭がぼーっとして涙が出てくることがあります。
幸い、我が家の場合は本気でわかりたいという気持ちと、正直な状態をちち に伝えた結果、ちち もカサンドラや発達の感情のくみ取りにくさについて、いろいろと自分なりに情報を集めて考えてくれています。
そのことで、ずいぶん話し合いができるようになってきて、子どもに対してそれぞれの観点をもって一緒に考えていくという方向性に一歩近づいたように思います。そこはとてもありがたいことだと思います。
今できること
今はそこまで。これから、子どもたちに怒ってしまう自分を振り返って、その必要があったのか、自分の意見の押し付けで怒っていないかを振り返りながら、少しずつ改善していくことが必要だと感じています。
とはいえ、しんどい。
毎日必要以上に工程の多い子育てになってしまう発達障害児、けれど、それはいい、悪いの話ではなく、彼女たち自身がそういう気質なだけ。
現実に発生する生活の困りごとと対処ができない事態に相変わらず、難しいけど諦めはしません。
でも、たまにはしんどい。
わかっちゃいるけど、私の会話の意図しないところで引っかかってしまったり、正解を求められていると思ってプレッシャーを感じたり、否定されていると思って黙ってしまうちち。
それも、全部、最初から私の知っているちちなだけ。悪いことでも何でもないし、ましてや、ちち自身もきちんと向き合ってくれている。一緒に考えようとしてくれている。私のことも考えようとしてくれている。それも私の知っているちち。
とはいえ、たまにはしんどい。
しんどいは来ます。

別に誰も悪くないから来たらいいよ!!
それはそれ、これはこれ。
来たら、「しんどい!!」って堂々と言ってやろう。今の想いとしてはそんな感じです。
そしたら、しんどいと一緒に私自身も微調整していく。それが今私が思うことです。
それが、そのうちにふたを開ければ私自身も含め、全員の成長になっていたらいいな。
コメント