ブログを始めたきっかけ ~発達障害との出会い~

白い机と白い紙 はゆまーまファミリーのこと
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発達障害との出会い

まず初めにこのブログを始めようと思ったきっかけを書いておきます。
きっかけは3つのことからです。

1.  我が家の姉妹のこと  –  発達障害という考えに出会って
2.  ちち(夫)のこと
3.  私に気づきを与えてくれる持病のこと

3つのきっかけ

我が家の姉妹のこと  –  発達障害という考えに出会って

我が家には二歳違いの姉妹がいます。
二人とも驚異的マイペースを誇るゆるやか姉妹です。

小さいころから幼稚園の先生、園バスの運転手さん、おばあちゃん(私の母)、学校の先生など、かかわる人から「…マイペース…で…」と言われてきました。(因みに皆さん漏れることなく…付きです。)

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苦笑い

当の私(はは/はゆまーま)の性格はと言いますと、せっかち寄り。ただ、ちち(夫)はかなりのマイペース人だったので、そちらに似たのか?それにしても、二人とも!?と思いながら、ちち の個性的な要素の方が受け継がれやすいのか?なんて思っていました。

何であれ、現実をとらえなければ!!とせっかちはは。待つ力を鍛える鍛錬場だ!!と言わんばかりに自分の弱点を鍛えなおそうと日々訓練、、、

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鍛錬場だぁー!!

に励めるわけもなく、最終的には怒ってしまう日々…。(気持ちはあるのですが)

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…..なぜ、子どもたちはこんなに生活習慣が身につかない…….?

結局、違和感を抱きつつも長女が8歳、次女が6歳の時にようやく次女に関してはASD(自閉スペクトラム症)だとわかりました。なぜこんなに気づくのにかかったのかと思われるかもしれません。私はそう思いました。

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もう少し早く気づいていたら…。 もしかして、子供に負担をかけつづけて、症状をさらに増幅させるような要因になっているのででは??

突然、腑に落ちた

さて、我が家の場合は最初に次女が発達障害だと認識したのが検査ではなく、私の勝手な確信でした。そのころ私は毎日動画を中心に子どもたちの状態のヒントを探していました。

・生活習慣が身につかない。
・話しかけても反応が薄い。
・話した次の瞬間同じことをする。
・伝わっている実感がないけれど理解はしているようだ。

とにかく一日に何度も同じことを繰り返し言い続ける毎日で、夕方ごろから疲労困憊で精神的にもいっぱいいっぱいでした。

子どもたちの考えていることがわからなくて、なぜそのような行動や反応になるのかと常に悩んでいました。

そんな思いで漁っていた動画の中に発達障害のものもあり、ある日、その特徴の一部にとても共感するものを見つけました。

それまでも何度も見聞きしていた情報でしたが、その日は今まで聞いてきたことが何となく整理されて頭の中に入ってきたのでしょう。突然これだ!!と思いました。

ずっと子育てに抱いていた違和感がそこにある気がして、私の中で突然、腑に落ちたのです。

同時に、私は発達障害の症状が”人間ってそういうものなんじゃないの?”とも感じました。

誰でも大小ある程度似たような要素を持っているものではないか?という印象を抱いた私は、発達障害の概念が自分が子供と向き合える判断材料になればそれでいいという思いで検査をするということは考えていませんでした。

わが子に必要な概念として発達障害というものを採用したという言い方が感覚的に正しいかなと思います。

ちち(夫)のこと

結局、次女のASDに思い当って半年ほどしてから検査することになるのですが、次女に対して思い当った際にもう一つ確信を持ったのがちち(夫)のこと。

はは
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ちち もそうやん!!

子供たちのことと同時に夫に対しても目の前の霧が晴れたようでした。

現状、ちち は発達検査を受けてはおりません。が、本人も私の話を聞いてそうだと確信を持ったようです。実際、次女の発達検査の問診票を二人で書いていたのですが。「これ、誰の問診票?」と笑ってしまうほど、そこにはちちの姿がありました。

はは
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これ、誰の問診票? 笑

ちち
ちち

これ、誰の問診票? 笑

そして、ちち の思考を参考にすることで、次女の思考のヒントが得られるかもしれないと期待した私でした。

気づきときっかけを与えてくれた持病

話は一旦逸れますが、そんな感じで新たな発見(家族の発達障害)に向き合おうとしている私には持病があります。ここでその話をするのには理由があります。それは、今思うと私が発達障害についてポジティブにとらえられた考え方の基盤を作ってくれたのがこの持病だと思うからです。

私の持つ病気は先天性の二分脊椎症というものです。
ざっくりいうと、母親のおなかの中にいる段階で背骨がうまく形成されず、背骨の中を通る脊髄神経がきちんと背骨で覆われない状態で生まれてくるという病気です。
私は潜在性といって、一見自立歩行もしているので見た目からはわからない状態です。

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「実は背骨開いてるんですよーっ」て状態。

症状としては、神経がむき出しになっているので負荷がかかりやすく、全身が常に稼働し辛い、重さや痛み、しびれと一緒に生活していると言った状態でした。

でしたというのは、次女が一年生の時にほとんど自立歩行ができなくなり、手術になりました。そこで、いったんは神経を守ろうと癒着する脂肪種を取り除く手術をしたことで一時的に神経の負荷が減り、現時点では(今思うと生活できていないレベルだった)体調が少し改善され、下肢の痛み、しびれ、不自由さ、下肢の神経症状はありますが、座る、寝るは維持できるようになり、ずいぶん根性論が緩和されて、私としてはとても満足している状態だからです。

はは
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座っても寝ても常に痛い状態でした。

ただ、背骨を閉じることはできないので、また脂肪さんはその思いやりで神経を守ることに日々精進していることでしょう。というわけで、また自然に脂肪が癒着してくるので、手術は一時的な対処ということで完治できるものではありません。

この病気は人によって本当に症状の現れ方が違うようで、目で見えない神経症状も含まれるので医師も対応が難しいようです。ざっくり言うと痛みは対応が難しいですよねということです。

医師からは、とりあえず、言及できることとして、動作による負荷はあるので腰を曲げたりなど患部に負荷のかかることはしないようにと言われるに留まっています。

はは
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あれ?ひたすら痛くて曲げられない時は意識できたけど、曲げられるようになったらどうやってたかわからん…。

人間はいいことも悪いことも慣れるようにできているのね…。(腰曲がらない人生約25年でも曲がる状態に甘えるのは一瞬でさすがにびっくりした私でした。)

そして、この手術入院から退院して3か月後に次女の発達障害に気づくことになります。

が、私はほとんど歩けなくなったこと、避けていた手術を強制的に受けることになったこと、そして退院してきてから子どもたちの謎が解けたことにとても前向きでした。

私はこの痛みと誰にも伝わらない不自由さのある暮らし、経験から、前向きなとらえ方、切り替え方や、いろいろな人に対する考えの幅をたくさんもらったということを改めて実感することになりました。

そんなこともあり、発達障害かもしれない!と思ったとき、わが子を理解できるヒントを手に入れられたと考え、自然と前向きにとらえることができたのだと思っています。

なので、私と病気の話は、私の考えの基盤として切っても切れないことだと思っています。

はは
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とらえ方って大切なのね。

人生で最もあきらめそうになる – 術後の体調、発達との向き合い –

発達障害の難しさに人生で最もあきらめそうになる

そうやって意気揚々と発達障害と向き合うべく船出した我が家。しかし、当然事態はそう簡単ではありませんでした。

最初に私が必要だと思ったことは、子供たちと接する大人との意識の共有です。

私が発達障害に気づく前に手術入院をしたことで、その間おばあちゃん(私の母)が2週間ほど我が家にいてくれたのですが、そのおかげで普段の子どもたちの様子を目の当たりにして、とんでもない状況だとわかってくれていました。(ちなみに、私が帰宅後、おばあちゃんはストレスで蕁麻疹に悩まされました。)

はは
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ごめんよ、おばあちゃん…。

おばあちゃん曰く、「言っていたことの意味が本当に身に染みてわかったわ!!とんでもない大変さや!!」
そうやって、おばあちゃんにはタイミングよく子供たちの性質、我が家が抱える課題を知ってもらうこととなった状況で発達障害の話ができたことも、ここで手術になってよかったと思いました。

ちち にも伝えると、「なるほど!!」と、すんなりとらえてくれて、自分のことも受け止めてくれました。

ですが、周囲の大人の知識や、子供たちの性質に合った対応の共有はなかなかうまくできませんでした。

私も術後の薬の副作用が酷く起き上がれないことが長い間常態化していて、普段よりも周りに手をかけてしまう状態でした。なので、周りも大変な中頑張ってくれていたのですが、結果的に複雑な状況が絡み合って、次女に対しては特にこじれてしまう対応になりがちでした。

私はなんとか動画や私なりの説明や子どもたちの性質などを伝えていたのですが、伝えることが多ぎること、複雑であることで難しく、個々人のとらえ方、理解の仕方によることが大きいこと、何よりその瞬間の子供に合わせた臨機応変さが必要なことだったので共有できるものではなかったのだと思います。

また、”それは子どもたちへの対応として逆効果だ”と思うことに対しても、何となく気を遣ってしまい、自分が考えられうる工夫も十分に共有できず、私は、周囲と子どもたちの間で何となく板挟みのような感覚になっていました。

診断を受けた医院での心理士さんとの面談もありましたが、状況観察がメイン対策を考えてくれるようなものでもなく、すべての情報収集と子どもたちへの還元が私次第になりました。

このころ放課後デイサービスなどの養育サポートもまだ受けておらず(申請待ちでした。)
さらに、これから同じ性質を多く持っている ちち のことを掘り下げていく中で子どもたちへのヒントを得られると期待したこともなかなかうまくいきませんでした。

そして私の 感情は無になって、周りを責める ことしかできなくなってしまったのです。

不自由な体が、気持ちの切り替えの大切さを教えてくれた

話はまた持病のことになりますが、私の体の不自由さは常に一定の痛みがおよそ同じパターンで同じ場所に現れるということがない状態です。つまり、全身に痛みが巡り、痛み方、痛い場所、痛い期間、きっかけも時間単位で違ったりします。

一応自立歩行は耐えながらしていましたが、「今日は調子いいわ!!」と言った瞬間に蟻の速度でしか歩けなることも日常茶飯事でした。(おばあちゃんの肩を借りて「蟻の方が早いやん!!」と爆笑するので余計に進めないというのが私のいつものパターンでした。)

また、特に痛みのきっかけのないことが日常的でした。

そういう毎日を送っていると、数か月ひどい状態が続いたあたりで流石に嫌気がさしてきます。そして、メンタルが落ちます。そのころに体の痛みが1日、2日ましになる日があると、せっかく痛みも少なく動けるタイミングなのにメンタルを引き戻すことが難しくなります。これを子供のころから繰り返していました。

そんな時は、今しかこれをできるタイミングがないかもよ?今せっかくそんなに痛くないのにもったいないよ?
とメンタルを半ば無理矢理グイっと引っ張り上げてくる。そして行動すればやる気も出てこっちの勝ち!!

人にはあまりオススメはできませんが、いざという時に自分の意思をグイっと上向かせることができるようになったように思います。

はは
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動けない代わりに自分と向き合うことができて、自分なりのやり方を会得してきたということですかね。

それを学生の頃から繰り返していた私は自分のメンタルを保つために必然的にネガティブをポジティブに変換する思考が鍛えられていたようです。こうして不自由な体は思考の切り替えの大切さを教えてくれたように思います。

子どもが大切だから自分を大切にする

さて話を戻して、無になってしまった私の感情ですが、初めはまだかろうじて子どもには無になり切ってはいないようでした。しかし、それほど立たずに子どもに対してまで無になってしまった私。本当に頭の中が真っ白で、思考が完全停止してしまいました。

ただ、ここから復活するのは早かったと思います

はは
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悩んでないやろー!?って思われるかもしれないくらい 笑

子どもたちに対して無になってしまった理由はとあることがきっかけで子どもへの対応に万策尽きた思いになったからです。何度も繰り返してきた伝わらなさ、身につかなさについに無力感と嫌気がさしてしまいました。

「私には今考えるべきことがある!このまま思考停止するわけにはいかないから、この無をどうにかしないといけない!」と思い、ひとまず今の状態を第三者に相談しないといけないと、すぐ相談できる公共機関を探したのですが、自分の住んでいる地域ではそれが見つけられず、結局支援機関を紹介されて終わってしまいました。

もうだめだと思ったときにすぐに頼れる場所があるはず!!と思い、最終手段のつもりで検索したのですが、あいにく相談先を見つけることができず、また途方に暮れてしまいます

この時、”本当に困ったときに、この状況を客観的に見てくれる第三者への相談が必要になることがある”のだということ、そして今の私は本当に自分しかいない。自分だけで全てをどうにかしようとしているのだと気づきました。その後、また何も考えられなくなり、1時間ほど横になりました。(寝てもないのに何も考えてもいない状態でした)
その日は頭が空っぽ、気力も空っぽのまま過ごしました。

翌日。悩んだ挙句、ひとまず、子どもたちには怒る はは の気持ちを素直に伝えましたははが何に対して怒ったのか、どうして怒ったのか、自分のどうしていいのかわからない気持ちもできるだけ説明しました。

すると、なんということでしょう!さすがにははの切羽詰まった様子がつたわったのか、長女の行動がすこぉ~しだけ緩和しました。

そして、長女の行動が緩和したことで次女も引っ張られるように一時的に自覚が持てるようになった様子でした。

はは
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子どもたちの変化を具体的に一つ挙げると、それまで全く意識のできなかった”時間”を少し意識できることがあるようになりました。

こうして、一時的でも見られた子どもたちの自覚によって少しの成長がみられることができた私は、冷静に自分と向き合えるようになっていきました。1週間ほどで前向きを取り戻して、1か月ほど自分と向き合ったことで、人生で一番心の折れそうな瞬間から人生で一番前向きな毎日に出会いました。

なぜ前向きになれたのか?
それは、いよいよ追い詰められてしまっても相談相手や具体的なアドバイスがすぐに求められないと気づいたときに、何が一番大切かを考えたからです。

何が一番大切か?

答えはすぐに出てきました。”子どもたち!”

子どもたちを大切にするために何が足りないか?

…そして私が私を大切にしていなかったことに気づきました。

その“大切”に向き合う私も大切にしないと!

追い詰められては子供たちを大切にすることができない!!それでは悪循環に陥ることに気づいたのでした。

はは
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子どもが一番大切!!大切にしたいなら自分を整えて向き合える状態にしておかないといけないんだ!!だから私は、私を大切にしないといけないのか!!

私は、これから子どもたちの見ているものを探して、理解はできなくてもできるだけ知ることで、子どもたちが現実社会から遠ざからないための方法を一緒に模索していける存在になりたいと思っています。そのために、自分自身にも気を配って、大切にしていきたいと思っています。

このブログはそんな私の持病と発達障害からもらう日常のヒントと学びを集めていくものです。

これからの私に。

これからの家族に。

そして、似たような困りごとを抱えている誰かの力になれるようなことがあればいいなと思います。

最後に、あの日、私の話を少しの間でも考えようとしてくれた子どもたちに感謝したいと思います。

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