※この記事は2024.12.27「ブログを始めたきっかけ ~発達障害との出会い~」についてリライトして再構成、分割したものです。
前回は我が家と、はは(私/はゆまーま)と発達障害の出会いについて書きました。
今回は前向きに出発できる!と思った私に起こった課題とこれからの向き合いについて書いていきたいと思います。
さて、意気揚々と発達障害と向き合うべく船出した我が家。
しかし、当然、事態はそう簡単ではありませんでした。
発達障害の難しさに人生で最もあきらめそうになる
子育てにかかわる大人たちとの共有
最初に私が必要だと思ったことは、子供たちと接する大人同士の意識の共有です。
ちょうど、私が発達障害に気づく前に手術入院をしたことで、その間、おばあちゃん(私の母)が2週間ほど我が家にいてくれたのですが、おかげで普段の子どもたちの様子を目の当たりにしたおばあちゃんにも、そのコミュニケーションの伝わりにくさ、理解のされにくさ、そのかかわり方の難しさがどれほどの状況かわかってもらうことができました。
(ちなみに、おばあちゃんは私が帰宅直後にストレスで蕁麻疹に悩まされてしまいました。)

ごめんよ、おばあちゃん…。
おばあちゃん曰く、「言っていたことの意味が本当に身に染みてわかったわ!!とんでもない大変さや!!」
そうやって、おばあちゃんにはタイミングよく子供たちの性質、我が家が抱える課題を知ってもらうこととなった状況で発達障害の話ができました。
私は長年リスクが大きいと避けてきた手術でしたが、「ここでしなければならない状態になったのには意味があったんだなー」と、自分の体調悪化にも有難く思ったほどです。
次に、ちち に伝えること。
正直、こちらは気を遣いました。前回にも書きましたが、次女の発達障害に気づいた結果、ちちも同じくだと思ったからです。
人によっては「障害」と言う言葉がネガティブに捉える物であること、繊細なちちに本心のところ
どう作用するかはわかりませんでした。
けれど、私からするととても生きづらそうに見えていたちち、その謎が解けることはちちにとっても前向きに働くのでは?と思った事。子どもたちに向き合うには私たちそれぞれの向き合いも不可欠であることから考えると伝えないという選択肢はありませんでした。
伝え方やタイミングに気を遣いましたが、私なりに言葉を選んで伝えました。
私が発達障害に対してネガティブに捉えていないこと、「障害」と言う言葉は正直ついているだけだと認識していること。その本心が伝わるようにと考えていました。
すると幸いにも、こちらも始めから「なるほど!!」と、すんなりとらえてくれて自分のことも受け止めてくれようと前向きに考えてくれました。
ちち 自身も発達障害についての情報を集めて、幼少期からの自分の周囲に対する劣等感や不安感、違和感、疑問、様々なことがつながったようでした。
子どもたちのおかげで、親の人生の謎が解ける。改めて、子どもとはこんなにも有難い存在なのだと感じることでもありました。
発達障害の情報共有、対応の仕方の難しさを実感
ところが、そう簡単にいくなら発達障害に悩む人なんていませんよね。
そうです、発達障害は本人しかわからない、伝わりにくさの塊でした。
そういうものがあると経験上知っていても、それぞれ違う感覚をもった世界に生きているということを知ることがまず難しいことだと改めて実感することになります。
当然のように周囲の大人の知識や、子供たちの性質に合った対応の共有はなかなかうまくできませんでした。
さらに、私自身の体調も、術後の薬の副作用が酷く、起き上がれないことが長い間常態化していて、普段よりも周りに手をかけてしまう状態でした。
なので、周りも大変な中頑張ってくれていたのですが、結果的に複雑な状況が絡み合って、次女に対しては特にこじれてしまう対応になりがちでした。
私はなんとかおばあちゃんとちち に、子どもたちの性質や私なりの解釈などを伝えて、動画で情報を共有するなどをしていたのですが、伝えることが多ぎること、複雑であることで難しく、個々人のとらえ方、理解の仕方によることが大きいこと、何よりその都度の子どもに合わせた臨機応変さが必要なことだったので、なかなか共有できるものではありませんでした。
また、”それは子どもたちへの対応として逆効果だ”と思うことに対しても、何となく私自身がおばあちゃんやちちに気を遣ってしまい、自分が考えられうる工夫も十分に共有できずという状態になっていました。
私は、周囲と子どもたちの間で何となく板挟みのような感覚になってしまったのです。
後々診断を受けることになってそこで定期的にすることになった心理士さんとの面談もありましたが、状況観察がメインで対策を考えてくれるようなものでもなく、すべての情報収集と子どもたちへの還元、周囲の大人のコントロールまで私の力量次第になりました。
また、このころはまだ放課後デイサービスなどの養育サポートも受けておらず、
家庭内では、これからは次女と同じ性質を多く持っている ちち のことを掘り下げていく中で、子どもたちへのヒントを得られると一度は期待したにもかかわらず、それが何より難しい現状にぶち当たり、ますます私のダメージは蓄積していきました。
そして私の 感情は無になって、周りを責めることしかできなくなってしまったのです。
不自由な体が、気持ちの切り替えの大切さを教えてくれた
前回の記事でお話した通り、私は体の不自由さを抱えていますが、それは私の心に多少の柔軟性を与えてくれました。
私の体の不自由さは常に一定の痛みがおよそ同じパターンで同じ場所に現れるということがない状態です。全身に痛みが巡り、痛み方、痛い場所も時間単位で違ったりします。
じっとしていれば楽になるかと言うと、それもなく、体調によっては逆だったりします。
寝ることで悪化したり、でも座っていても回復もしないどころか座っていることが辛い。
一応自立歩行は耐えながらしていましたが、「今日は調子いいわ!!」と言った瞬間に痛みで蟻の速度でしか歩けなることも日常茶飯事でした。(おばあちゃんの肩を借りて「蟻の方が早いやん!!」と爆笑するので余計に進めないというのが私のいつものパターン。)
また、特に痛みのきっかけはなく、全身のあらゆる箇所が様々な痛み方をすることが日常的、手を使うと足に、足を使うと上半身が動かなくなるといった調子でした。(人の体って連動している!!と言うことだけは思いっきり体感できます(笑))
つまり、痛みで私のメンタルはブンブンに振り回され続けていたということです。
そういう毎日を送っていると、数か月ひどい状態が続いたあたりで流石に嫌気がさしてきます。
そして、メンタルが落ちます。
そのころに体の痛みが1日、2日ましになる日があると、せっかく痛みも少なく動けるタイミングなのにメンタルを引き戻すことが難しくなります。これを子供のころから繰り返していました。
そうすると「今しかこれをできるタイミングがないかもよ?」「今せっかくそんなに痛くないのにもったいないよ?」
と自分に言い聞かせて、メンタルを半ば無理矢理グイっと引っ張り上げてくる。
(心の中で「うおおおおおおおお!」って叫ぶ 笑)
そして行動すればやる気もちょっとずつ出てきてこっちの勝ち!!そんな力任せの方法を身に着けていきました。
人にはあまりオススメはできませんが。笑
いざという時に自分の意思をグイっと上向かせることが必要だと考えられるようになったのだと思います。

動けない代わりに自分と向き合うことができて、自分なりのやり方を会得してきたということですかね。
それを学生の頃から繰り返していた私は結果的に自分のメンタルを保つために必然的にネガティブをポジティブに変換する思考が鍛えられていたように思います。
こうして不自由な体は思考の切り替えの大切さ、ポジティブ思考の土台を作ってくれたように思います。
※ここで一つ注意事項として述べておきたいのですが、この前向き思考の土台はとても得難い貴重なものですが、無理やりメンタルを上げることはいざという時に無理が来ることが後々わかることになります。
というか、まじめに取り組もうとするほとんどの人にはにオススメしません。この時期は私にとって忍耐力をただただ鍛えるという時期だったのだととらえています。笑
無理やりはなんでも自分を壊すきっかけになります。無理やり、全部を背負ってどうにかしなければと思った事で私のメンタルが壊れかけることになったからです。
ただ、このことに気づき始めることができている今を考えると、私にはグイっと期間は必要なものでした。というお話です。
無 感情が動かない
さて話を戻して、無になってしまった私の感情ですが、初めはちちに対して感情が動かなくなりました。
まだかろうじて子どもには無になり切ってはいなかったのですが、子どものことを考えると、ちちとの対話は必要です。
が、そんな状態では前向きな話し合いができるわけもなく、今思い返すと、お互いの不信感がつのって、ちちも余計に「責められている」と捉えて反発するような雰囲気しか出せず、私も、「なぜ言っていることが伝わらないのか?」と、ちちを見下したような雰囲気を出していたのでしょう。
しかし、伝わらない日常、はは の体調をあまりにも理解しない子どもたち、細かな言葉のニュアンスに引っかかって進まないちちとの会話。
私には、その蓄積はそれほど時間が経たずに子どもに対してまで無になってしまう理由として十分だったようです。
きっかけは些細な日常でした。
いつものこと。
いつものことなのですが…。
その日、時間感覚の身につかない子どもたちは、習い事まで遊びに行くと数歩先の友達の家へ出かけました。
私もようやくほかのこと遊べるようになった子どもたちにできるだけ友達と遊ぶ経験をしてほしくて、必ず何時にはかえって来るように!!と強く言って、連絡手段も持たせていかせました。
数歩先の家だったことも、そうさせた大きな要因でした。
結果、子どもたちは時間になっても帰ってこず、雨の中杖をついて子どもたちの傘を持って迎えにいった私に、子どもたちは応じず、長い間時間をかけてようやく出てきたと思えば、傘をさして、杖と一緒に子どもたちの傘でいっぱいになった私の手を見て「何を持ってるの~?」なんて気楽に声をかけてきたことがきっかけでした。
私の痛みも、状態も理解しないのは当たり前だったし、私も自分を大変だなんて思っていませんでした。
けれど、その時は絶望しました。
この子たちが、大人になってもこの感覚のままだったら…。
誰かをとても気づつけることになったら…。
脳の気質はどうしようもないのか…。
絶望感を感じました。
本当に頭の中が真っ白で、思考が完全停止してしまいました。
何度も繰り返してきた伝わらなさや身につかなさに、ついに無力感と嫌気が限界になってしまったのです。
そうして、私はそのあとから少しの間、子どもたちに対して感情が動かなくなるということを体験することになりました。
母親として、子どもたちに感情がわいてこない瞬間を味わった私は焦りました。
「私には今考えるべきことがある!このまま思考停止するわけにはいかない!この無をどうにかしないといけない!
それだけはわかりました。
何も湧いてこない感情を取り戻そうと、ひとまず今の状態を第三者に相談しないといけない!誰かに助けを求めないといけない!!と思いました。
ところが…。すぐ相談できる公共機関を探したのですが、自分の住んでいる地域ではそれが見つけられず、結局支援機関を紹介されて終わってしまいました。
私は、子どもと向き合う親がもうだめだと思ったときにすぐに頼れる場所があるはず!!と思い、最終手段のつもりで検索したのですが、あいにく相談先を見つけることができず、また途方に暮れてしまうことになりました。
この時、”本当に困ったときに、この状況を客観的に見てくれる第三者への相談が必要になることがある”のだということ、そして今の私は本当に自分しかいない。自分だけで全てをどうにかしようとしているのだと気づきました。
そこまでは考えられた私ですが、「じゃあ、どうすれば?」何か思いかけたのですが、その後、また何も考えられなくなり、1時間ほど横になりました。(寝てもないのに何も考えてもいない状態でした)
その後、その日は頭が空っぽ、気力も空っぽのまま過ごしました。
ただ、ここから動き出せるようになるまでは比較的早かったのではないかと思います。

悩んでないやろー!?って思われるかもしれないくらい 笑
翌日。悩んだ挙句、ひとまず、子どもたちには怒る はは の気持ちを素直に伝えました。
私が何に対して怒ったのか、どうして怒ったのか、自分のどうしていいのかわからない気持ちもできるだけ説明しました。
すると、なんということでしょう!さすがにははの切羽詰まった様子が伝わったのか、長女の行動がすこぉ~しだけ緩和しました。
そして、長女の行動が緩和したことで次女も引っ張られるように一時的に自覚が持てるようになった様子でした。

子どもたちの変化を具体的に一つ挙げると、それまで全く意識のできなかった”時間”を少しだけ意識しているんだなと感じる出来事が2、3回ありました。
本当に、少しの間だけですが、それは私に母親としての思考を取り戻すには絶大なパワーでした。
こうして、一時的でも見られた子どもたちの自覚によって、私は冷静に自分と向き合えるようになっていきました。
自分の一番大切なもの
一番大切なもの
1週間ほどで前向きを取り戻して、1か月ほど自分と向き合うことに重きをおきながら過ごしたことで、人生で一番心の折れそうな瞬間から人生で一番前向きな毎日に出会いました。
なぜ前向きになれたのか?
それは、いよいよ追い詰められてしまった時、自分には何が一番大切かを考えたからです。
何が一番大切か?
答えはすぐに出てきました。「子どもたち!」
子どもたちを大切にするために何が足りないか?
…そして私が私を大切にしていなかったことに気づきました。
自分から始まる
“一番大切”に向き合う私も大切にしないといけないのかっ!
追い詰められては子供たちを大切にすることができない!!
私は、自分を犠牲にしては何も大切にはできない。それではどんどん悪循環に陥ってしまうということに気づいたのでした。

子どもが一番大切!!大切にしたいなら自分を整えて向き合える状態にしておかないといけないんだ!!
だから私は、私を大切にしないといけないのか!!
正直、私はそれまで、大切なもののために一生懸命に行動することが正解なのだと、そうしなければならないのだと思って生きてきました。
だから、自分の体も、メンタルも、そっちのけで最低限の清潔な環境や、子どもたちへの対応、夫への対応をしていました。けれど、当たり前って怖いですね。
驚くことに、思い込みの当たり前にしたがって、自分が物理的にも手術が必要なほど追い込まれていることに、そして、遂に心まで壊れそうになっていることに全く気づいていなかったんです。
無意識で当たり前と思っていること恐ろしさたるや!!!すべてを破壊しかねないところでした。
けれど、気づくのが遅い私でも、この出来事をきっかけにたくさんの学びと幸せに出会っています。
私は、これから子どもたちの見ているものを探して、理解はできなくても、できるだけ知ろうとすること、子どもたちが現実社会から遠ざからないための方法を一緒に模索していける存在になりたいと思っています。そのために、自分自身にも気を配って、自分を大切にしていきたいと思っています。
最後に、あの日、私の話を少しの間でも考えようとしてくれた子どもたちに感謝したいと思います。
これからたくさんの学びをこの場で記録しつつ、複雑な発達障害に関連する日常や葛藤や感謝を伝えて行けたらと思っていますので、お付き合いいただけるととても嬉しいです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。よかったら、ほかのエピソードにも寄り道していっていただけると嬉しいです。↓
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