カサンドラ症候群と回復に向けての思考(夫婦編)

メンタルヘルスの看板と人形 日常 ー 学び
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※このブログでは我が家の夫のことを家族目線で ちち と呼んでいますが、ここでは、夫婦間の話なので、便宜上、夫と書きます。

発達障害について知って夫のことを理解したいと思えば思うほど、正直どうしょうもない絶望感を感じることになってしまった私。

それは何が原因だったのか。自分の問題と夫の問題を分けて考えることで、よく考えたら問題なんてないのかも?と感じた経緯を書きます。

  同じような回復思考の家族全体から見たお話はこちら↓↓

悩むって難しい。そんな人達に何かのきっかけになればうれしいです。

発達障害 → 前向き → 八方ふさがり

私は、まず家族が発達障害だとわかった時、今までの違和感が漠然とつながった気がして安心しました。

得体のしれないものから、名前のあるものだということが分かったからです。

人の悩みって、正体が知れないうちが一番不安だし、怖いと思います。

それが、名前があり、何なら大枠の参考書まである!!そう思ってとても目の前が開けて、これから向き合っていくものの正体に有難さまで感じました。

はは
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「発達障害」私の前に現れてくれてありがとう。

当初の私は何となく発達障害の思考を学べば理解できないことを理解できると思っていました。

最も、人間はみんな違います。発達障害でも定型発達(発達障害ではない一般的とされる発達をたどる人)でも同じだと思いますが、本当の意味で理解しあえると私は思っていません。それはネガティブな意味ではなく、それがあるから理解したいとか知りたいという気持ちが生まれるし、その姿勢が大切だと考えています。

我が家の場合、発達特性のある家族のために夫との間でやるべきことは二つ。

・子どもたちのわからない思考は夫の感覚を探ってヒントにする。

違うことが前提で、お互いが理解できないポイントを知る。そしてその姿勢を子どもたちに伝えたい。

とても前向きに動きだした気持ちだったのですが、事態はそんなに単純ではありませんでした。

人間には感情があります。

頭の中を整理して夫に働きかけている間でも、みるみるうちに夫との話の中でのわずかな違和感が私に蓄積されていきます。

その対処の仕方に考えあぐねているうちに、私は 夫と、子どもに対する向き合い方を、考えたい思っている という問題が ’私の言っていること、私の感情がどうしても伝わらないことがやっぱりしんどい問題’ に置き換わっていっていました。

私のどこかで、どうしても理解してほしい気持ちがまた噴き出してきてしまったのです。

それが悪いことだとは思いません。とても当たり前の話だと思います。けれど、その気持ちと、理解したい気持ちは同じところに並べておいてはいけなかったのだと思います。

後に私は、それはそれ、これはこれ、私の向き合う問題と家族で向きあう問題は別で存在していて、それがごちゃごちゃに混ざってしまっていたのではないかと気づきました。

何度か同じことに行きついたとしても、きちんと自分に身につくまで時間がかかるものですね。私は一度気づいたと思ったことをまた忘れてしまうところでした。

けれど、その理解してほしい思いを強くしたのも、また、今までの日々の結果でもありました。

実は私の感情をあまりわかっていなかった夫

たまっていた違和感=絶望感

最初に夫が私の感情をあまりわかっていなかったことに気づいたときは、正直、今までの私の中の夫という人間像が崩壊しかけました。

と、同時に今まで抱えてきた違和感が、いつも喧嘩の種になっていたことの謎が一つにつながりもしました。

そうすると、次に、「どうしてもこの人は私の考えをわかることはないのか。」と絶望感がふとこみあげました。

私がなぜひどく孤独を感じているのか、その理由が分かって、そして、この先もずっとこの状態が続くであろうことに一瞬限界を感じてしまいました。

感情を理解されない虚しさ。それが我が家の場合、一番協力できると思っていた夫も、子どもたちも、どの方向を向いても私にその真実を突きつけてくる状況だとわかったのです。

もうだめかもしれない。

一旦はそう思いました。なぜなら、家族の問題を解決するためには、この問題を解決しなければいけないと思ったからです。

はは
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だけど、その特性上、それはかなわない。どうすれば?

結論から言うと、解決なんてしなくてもいいことだと今は思っています。私の場合、そう思うには私の違和感の原因と私が見てきた事実を考えることでした。

たまっていた違和感の原因

実は私の感情をあまり理解していない夫。

それがわずかな違和感になって蓄積していたことにようやく気付くことになった私ですが、

私が長年通じていると思っていたのにもそれなりの理由があります。

そもそも、ASDをもつ人は他人の感情をくみ取ることが苦手と言われますが、だからと言って感情が無いわけではありません。むしろとても繊細な人間が多いように思います。

人によってそのあたりは変わってくると思いますが、その繊細な感情を持っていること本人が必要だと思ってそうしようとすると、一点集中ができるため、時には他人に人一倍細やかな気配りができたりするのではないかという印象を持っています。

ですが、それに反して自他境界のあいまいさによる自分の認識、他人の認識の区別、客観視の苦手さによって、あるいは、他人を気にするということにまず意識が必要なことによって、結果的に感情経験が少なくなり、心の成長のゆっくりさ、もしくは難しさにより他人の気持ちに寄り添うという視点が乏しくなりがちで、他人にどうしてあげればいいのかわからないということが起こりやすい面があるのではないかとも思います。

これらが共存しているために、こちらではできているけれどこちらではなぜそんな反応になる!?ということを起こす。つまり違和感が発生していたのではないかと私は考えています。

ASDはよくコンピューターのようだと言われますが、夫もそれに違わず、得た情報をインプットして理論だてることが得意です。

最近知ったところによると、どうも理解できない感情を、こういう人がいるらしいという過去の経験から収集された情報と、その分析力から出た人の行動パターンをもとに推察してコミュニケーションに生かしているようです。

一つのことに対して深掘りが得意彼はこれが、非常に的を射る時も多く、一見、私の感情をくみ取ってコミュニケーションがとれているように見えていました。

一方、私視点から言うと、私は人の言動は必ず感情が伴うと思っていたので、コミュニケーションとは、相手の感情を理解しようとしたうえで成り立つものだと思い込んでいました。

なので夫に対しても、そのリアクションが私の感情を考えての言動だと勝手に思い込んでいたのです。

そして、これが孤独感の原因にもなるのではないかと思っています。

この情報収集と分析力により、話している相手の意図ではなく、大衆意識の統計での意図をくみ取ろうとしてしまうことが出てくるため、コミュニケーションに齟齬が出てきてしまうのではないでしょうか?

そしてそれは、ASDを持つ人のストレス値が高くなったり、情報が多くなって混乱してくるとより起こりやすくなるのではないかとも思っています。

つまり、二人で話しているのに、私に話を返しているのではなく、大衆の意見に話を返しているので、話し合いにが不在になってしまうのです。それがコミュニケーションがずれてしまうこと、その積み重なりがカサンドラ症候群につながる孤独感の原因になることではないかな?と私は感じています。

家族の問題とは何か?を明確にする

自分の中の問題=自分がしてほしいと思っていること と 問題解決のためにする必要があること を分ける

私は家族の問題の解決を考えたかったはずが、夫に私の感情を理解してもらうことで、夫に感情をくみ取れる練習をしてほしい!という方向に考えが変化していました。

そこには、そうできない夫という人間を置き去りにして、コミュニケーションってそういうものでしょ!?と私の概念を押し付けているだけの状態がありました。

これって、先に書いた話し合いに私が存在しなくなるという話と同じですよね?人には感情があるから当たり前なのかもしれませんが、こうやってお互いに同じ無理を押し付けあってコミュニケーションしているものなんだなと思いました。

それから考え直すと、それは私の課題である「理解してほしい」が「家族を理解したい」という家族の課題とごちゃまぜになっていることに気づきました。

問題は私の中にもあって、それが一方的な私の欲求のために生じている不満なんだなと思った事で、夫がしていてくれていた行為を客観的な事実として捉えることができました。

夫は私に寄り添おうと自分のできる方法で全力でしてくれたことは事実じゃないか。と。

自分にとって何を選ぶことが大切かを明確にする

今のところ、私の結論は、夫との間の問題はお互いを宇宙人同士としてそれぞれの世界観の考え方を知ること。

私は自分の感情を通すことが自分の平和ではなく、今の環境、かかわる人達に対しては、相手を知る、違うを知ることが私の心の平和だという結論が出ています。

感情の入ってしまいやすい子どもに対しては、まだまだ活かせていないのが事実ですが…。

心と頭を動く環境において、奮闘する余力を残していくことが大切かもしれません。

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